小学校の時。3年生4年生と2年続けて担任してもらったA先生は私の田舎の菩提寺の住職だった。
芸術家肌で変わりモノ。他の先生からもちょっと距離を置かれている左翼思想の先生だったのだのだなと今では解る。3年生の始業式初日。私は仲の良かったY本君の座布団の下にブーブークッションを仕込み見事にブリブリ言わせた彼を大笑いした。怒りで真っ赤になったA先生はオニの形相で私の方に歩いてきてそのまま首根っこを掴まれ廊下に机と共に投げ出された。それからずっと私の机は廊下に放り出されたまま。給食も廊下に放り出された机の上に自動的に置かれていたので膜の張った冷たいシチューをコッペパンと一緒に食べていた。
そんな容赦無いA先生だったのだが何故か国語の授業と口蓋射精、もとい校外写生の時は私も授業に参加させてもらえた。その時だけはA先生は私につきっきりで森の濃淡の付け方や瓦の光の付け方などを絵筆を一緒に持ちながら教えてくれた。国語の授業の時はほとんど指導要綱無視だったと思うのだがA先生の好きな「レ・ミゼラブル」や「杜子春」などを教科書無しでA先生の語りのみで教わり感想文を書かされた。
その年の秋。A先生が乱歩やルブラン、ドイルにポーなど100冊近い児童書をいきなり教室背中の個人ロッカーになっている木棚の上に並べて「みんな好きに読め」と言った。多分同級生のほとんどは本を手に取っていなかったと思うのだがその日にまずポーの短編「黒猫」を読んだ私はすっかりトリコになった。それからというもの毎日学校帰りに二宮尊徳の如くランドセル姿でひたすら本を読みながら畦道を通って帰宅した。家に帰ってからも畑の草むしりをサボってひたすら読み耽った。当然の如く全冊(ドイルの「恐怖の谷」には導入部から苦戦したが)あっという間に読破した私をA先生は次の日に何も言わず教室の中に机と共に戻してくれた。
大学に入ってからは帰省する度に52歳で早逝してしまった小学6年生の時の担任のお墓参りを済ませたら必ずA先生のお寺にロイヤルを持って伺うのが習慣になっていた。胃ガンで胃をほとんど切除してしまっていたA先生はお酒は厳禁だったハズなのに奥様の目を盗んで本堂の何処かにいつもダルマが仕込んであったので私が持ち込む安酒でも充分喜んでくれた。
6年前。私が転職することを実家に報告しに帰省した際A先生にも当然の如く報告に行った。すっかり痩せ細っていたA先生は自分のアトリエでウイスキーを飲みながら珍しく3時間も昔話をしてくれた。若い頃結核を患って文学青年になったこと。左翼活動に明け暮れた帝大時代。絵が好きだったけどあと一歩で世に出られなくて院展にはそれ以来出品しなくなったこと。そして話の最後近くになって私をずっと廊下に放り出していたあの時のことを初めて語ってくれた。
あの年の秋。児童書をいきなり教室に持ってきたその理由は息子さんが若くして病んでしまいある朝起きてこない息子さんの自室に行ってみると服毒自殺していたこと。その息子さんの蔵書を家に置いておくのはあまりにも辛いので学校に全て持ってきたこと。その息子さんの蔵書を最初に全部読んでくれたサイトウ君が息子の生まれ変わりに見えて…やっと私は教室追放を解除されたとのこと。帰り際には先生が描いた油絵がプリントされたポストカードを3枚いただいた。高梁川と倉敷の家並み。3枚目は幼い子供の制服姿が描かれていた。
その翌年A先生は逝った。葬式も位牌も無し。手を合わせる場所は一切無いようにとの遺言だったそうだ。変わりモノのA先生らしい逝き方だなと思った。ある朝いきなり消えてしまった息子さんを想いA先生もスッパリと現世から消えてしまいたかったのでは無いかと思う。
A先生の如く私もたった1回きりしか無い自分の生を捨てきれるだろうか。芋虫のようにポトンと自らを井戸の中に放り込んだ後は永遠の暗闇に陥る潔さが持てたなら…少しは今の自分をもっと濃く生きれるのかも知れない。